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清水六兵衛邸のある五条坂は、明治期には名工、名家が軒を連ね、家の中は活気に溢れていたが、通りに面した門は閉めきったまま、のれんがなければ何屋をしているのかわからないほどに非常にもの静かな佇まいを見せていた、と陶芸家の宇野三吾氏は伝えている。清水焼の作品を陳列した店が立ち並び、日毎訪ずれる観光客で活気を呈している今日、白い大きなのれんのかかった清水邸の小さな門構えは、明治期の五条坂の面影を伝え、清水焼の長い伝統を支えてきた名家の誇りの中に、ひっそりと佇んでいる。
清水六兵衛が、その作陶において実現しようと努めてきたものは、日本の美、日本人の心の表現である。この自覚は、昭和四十年のヨーロッパ諸国、中近東、エジプトなどへの美術視察を通じて、一層深められたようであるけれども、それよりはるか以前から、その意識が作陶の性格と方向を決定していたように思われる。では、氏の目ざす日本の美とか、日本人の心の表現というのは、どのようなものであるのだろうか。
戦後の作品は、独自に創作したマット釉やガラス釉で器面全体をおおい塗り、焼成後の幽玄で微妙な発色を狙っているのがほとんどであり、それが氏の作陶の基本的な傾向である。釉の幽玄な色合いには、器胎の土味も十分に生かされているわけで、全体としては、侘び、寂びの覚味を貫きながら、同時に土の温かさをも感じさせるものとなっている。これは作品の全体的な情趣を規定しているのであるが、他方、絵付けにおいては、侘び、寂びの風情が作家個人の基本的な美質として内面的に捉えられ、心象的な次元にまで深められている。
もうひとつ、王朝風の雅びもまた六兵衛氏の美質の根底を流れていることを見逃すわけにいかない。絵付けにおける花鳥風月のモチーフや、時に銹幼や古稀彩における金泥、銀泥の大胆な賦色が象徴的である。しかし、その場合にも、絢爛さ、きらびやかさの発揚は少ない。マット釉で艶消しがされてあったり、刷毛目を残してあったりするので、むしろ渋く、さびた感じが強いのであるが、それでも金や銀の持つ本質的な属性は否定しきることができない。
要するに、清水六兵衛氏の創作陶芸の美は侘び、寂びの美感と王朝風雅びとの調和的融合の上に成立していると言える。それはとりもなおさず氏の美意識それ自身の在り方であるし、また氏によって感受された日本の心、日本人の美意識に他ならないであろう。
しかし、土味の侘びと貴族的麗雅の二つの美的範疇を同時に合わせ持った陶器美の在り方は、実に仁清、乾山以来の清水焼のもっとも重要な特徴である。また陶土に色絵風の絵付けをするのも清水焼の一大特長である。仁清の場合は色絵と「土見せ」によって、雅びと土味の二つの美意識を対比し、そこに一つの美的世界を生ぜしめている。乾山の場合はより近代的な意識をのぞかせているが、やはり銹絵と「土見せ」との対比の美がある。六世清水六兵衛の場合は、もはや絵付けと土味の間に対立はなく、両者はともに一つの世界に融け込んで調和を実現している。各々に歴史的な条件や個性の違いはあるとは言え、土味という大地志向の美意識と花鳥風月的趣味世界の相交わるところに、所謂日本の美の真髄を見る意識は三者に共通するところであり、それは結局清水焼の伝統を一貫して流れる、もっとも基本的な美の感受の仕方であるに違いない。
ところで、六世清水六兵衛の陶芸が清水焼の伝統に深く根ざしているということは、個人による創作陶芸を目指す立場からすれば、創造の過程において伝統を克服し、伝統を克服しながら新しい個性として、再び伝統につながっていく事情があったはずであるということを意味している。蓋し、中国古陶、特に唐三彩の美しさに傾倒しながらも、そこから三彩流幼という独自な手法を創作したとき(昭和二十二年)からはじまって、今日に至るまでに実に十数種の新釉や窯技を創作しているという事実の中に、六兵衛における創作陶芸を賭けた執念の烈しさと、その裏側にある伝統との確執の深さが物語られているように思う。
その凄まじさは、個々の作品における美の現われ方にも投影しているように思われる。六兵衛の陶芸の根本を流れている侘び、寂びの美感は、前にもちょっと言ったように、それが一人の人間の心象風景において捉えられ、今日的な息吹を持っているという点がユニークである。つまり、通常茶陶の世界で言われているような、超歴史的に普遍化され理念化された、非個性的で固定的な、従って現代的なリアリティを全然持たない、あの侘びや寂びではなくて、現代に生きる人間としての立場から感得せられた侘び、寂びの世界が、六兵衛氏の陶芸にはある、ということである。それは何故かと言えば、作家自身の心象的な風景としてそれらが捉えられているからである。ここに、六兵衛の陶芸が、土の暖かさがそのまま作家の体温を思わせ、あるいは人間的な灰汁や体臭を感じさせる所以がある。だから氏の作品には、手にとってじっくりと味わう面と同時に、なにかしら人の心に切々と迫ってくるような面とが兼ね備わっている。このことは、茶陶の世界に精神の寛ぎや、枯淡の美に遊ぶことだけを求める人にとっては、うるさく感じられる要因になっているかもしれない。しかし、筆者個人は、そこに芸術家の使命としての現代陶芸の創造に賭けた執念の凄まじさと、またそのように生まれついた人間の業の深さ、それ故の苦しみの深さを見る。そういうものが、作家の意識を超えて作品の中に織り込まれ、陶芸鑑賞の立場から、人の心を強く惹きつけ、時には圧倒さえするのである。
清水六兵衛の作品のこのような特異な美質は、京焼の歴史や風土と無関係ではない。周知のように、西洋の近代的な芸術思想の導入とともに、陶工の間にも陶芸家としての自覚に目覚め、純粋美術的な陶芸作品の創作を目指す運動が、明治末期から昭和の時代を通じて展開されるが、その自覚に最も早く目覚め、且最も主体的に担ってきたのは京焼の作家達に他ならなかった。と言うよりも、京焼の歴史それ自体が、そもそもの出発点から、近代的な自我意識を持った幾人かの偉大な個性によって形成されてきた、という性格を持っている。だから、素材上の色絵陶器、色絵磁器、美的範疇上の王朝風雅びといった大まかな枠組みはあるにしても、京焼の伝統の内実は多種多彩を極めているし、個々の作家が確立した美的世界が各々に頂点を極めながら独自に存在している様相は京焼においては際立った特徴である。そのような伝統的特性の中で育ってきた作家にしてみれば、伝統の継承や、伝統への参画は、個人における創造性を全うすることを通して果たされるべきである、という意識をほとんど宿命的に強いられているであろうことは想像に難くない。
加えて、六世六兵衛には名門の家柄というもうひとつの克服すべき条件があった。伝統の重みということが、そのまま名門の家という形をとって、かなり具体的なリアリティをもって氏の双肩にのしかかっていた。清水家の家門を引き継ぎ、六代目を立派に全うするためには、先代のレベルに匹敵するばかりでなく、それ以上の作品を創造することが必須の条件である。と六兵衛は考えた。そしてその道は、清水焼作家の体質として、たとえ世代の断絶、伝統との断絶を生じ来たらそうとも、自己の個性に基づいた新しい陶芸美を創造するところにしか開いてこない。名門の家柄は、陶芸家の条件としてはむしろ大きなハンデーであり、それをも克服してゆかねばならないと自覚することは、より険しい道を敢えて選ぶことであったし、その険しさに比例して、創作陶芸に賭けた執念も異常なまでに昂らざるを得なかったのである。(1978年記述) |

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